私たち神戸ミャンマー皆好会では、先の大戦で亡くなられた方々を偲び、墓苑活動を行っています。
そのいくつかをここでご紹介します。
 詳しくはブログ「ミャンマー好きなヒト集合」をご覧ください。

【ピンウールィンの陸軍墓地】
 

 メイミョウと呼ばれていた地名は、今はピンウールィンと呼ばれています。シャン高原の一角にあり標高1,100mにあり、年中花が咲き乱れ、避暑地として有名な所です。英国の植民地時代から避暑地として栄えていました。当会は農業支援の梅農園と交流会館を持っていますので、毎年ピンウールィンを訪れています。

ビルマ戦線では32万人の兵士が戦い、19万人が戦病餓死者されました。メイミョウには陸軍墓地が建立されています。この墓地まで来られてお参りされた戦死者の娘さんの標し(写真左下貼付)がありました。墓石の傍の柱に、戦死されたお父さんの氏名、戦死日、部隊名、そしてお参りに来られた娘さん自身の住所氏名が厚手の布地に書かれていました。そしてその上に白菊一輪が手向けられていました。

白菊は美しくドライフラワーになっていました。

第18師団輜重兵第12連隊 菊8911 池田光夫 昭和19年9月8日戦死

福岡県浮羽郡吉井町 (現在は2005年3月20日の町村合併で うきは市)

長女 国武ハルカ 

と記載されていました。

 ハルカさんが陸軍墓地を参られたのは、町村合併以前になりハルカさんの誕生は昭和19(1944)年以前と思われます。ハルカさんが2004年にメイミョウに来られたと仮定しますと、ハルカさんの年齢は60歳を超える年齢になります。池田家の長女として戦死されたお父さんを思い続けて、メイミョウまでお参りに来られたと思います。

 ミャンマー皆好会の女性会員のお父さんにも昭和18年3月、1歳を迎えたばかりの娘の顔をじっと見つめビルマ戦線へと出征された方がいらっしゃいます。昭和22年、父戦死の報せを受けました。彼女は子どもの頃からお父さんを思い続けました。2007年に彼女は当会のツアーで、お父さんが戦死されたプローム(現ピイ)県カマまで行かれました。そこでミャンマーの僧侶にお願いをして「父の眠るカマで追善供養」を行ないました。彼女はお父さんが戦地で居たと思われる場所で「一瞬、父と同じ空気を吸っているような錯覚を覚えました。」と言われました。

ハルカさんも同じ気持ちだったと思います。ハルカさんの白菊一輪には目頭が熱くなります。

 
【「ビルマの竪琴」のモデルとなった「ビルマの耳飾り」の作者 故武者一雄氏の墓石】

 

 約70年前の今日12月8日に昭和天皇の「大東亜戦争開戦の勅書」が発せられ、米英と開戦しました。

開戦から4年8ヶ月の間に、米軍機の日本無差別空襲で都市部は焼き尽くされ、広島・長崎に原爆投下をされて多くの非戦闘員の国民が尊い命を失いました。そして多くの兵士も戦地で戦・病・餓死で尊い命を失いました。ビルマ戦線では19~20万人とも言われる兵士が戦・病・餓死で尊い命を失いました。

 当会では毎年、日本人墓地を参拝するツアーを企画しています。墓地には作家 故武者一雄さんの墓石も建立されています。武者さんはビルマ戦線インパール作戦に参戦された兵士で昭和21年に復員、福井県の永平寺で修行され、故郷群馬県赤城山下の雲昌寺の住職をされていました。かたわら作家として活躍された。昭和45年に映画ビルマの竪琴のモデルとなった「ビルマの耳飾り」を発表され、講談社の児童文学新人賞を受賞されました。武者さんは平成20年12月に92歳で亡くなられました。

 「ビルマの耳飾り」を読まれた方も多いと思います。この本の推薦者浜田広助氏の推薦文を紹介いたします。「兵隊さん、敵を殺さないでください……日本兵の無事を願って、大切にしていた(耳飾り)を一兵卒に託したビルマの可憐な少女の祈り……20万の兵士が野山に白骨をさらしてた悲劇の戦場インパールに人知れず咲く、日本兵とビルマの子どもたちのヒューマンストリー」